アメリカの首都であるワシントンD.C.の一角に、この店は位置する。都会の喧騒とは無縁の『butter milk』は、オーナーが半ば趣味で運営しているコーヒー店だ。店内に流れる静かなジャズ音楽とコーヒーのほろ苦い香りが、穏やかな気持ちをもたらしてくれる。
クラリス・ウォーカーがその奇妙な青年と出会ったのは、あのニューヨークの戦いから1年ほどたった冬のこと。マスターが買い出しに行き、一人で店番をしているときだった。
本格的な冬はまだまだこれからだが、冷たい風が吹き始め、外を行き交う人々は首をすくめて歩いてる。 そんな光景を後目に、クラリスはハロウィン仕様のメニュー表を書いていた。先月のメニュー表に描いたカエルが思いのほか好評で、今月も同じように絵を描いてくれ、とマスターに頼まれたのだ。
なんとかハロウィンっぽくジャックオーランタンを描き入れたとき、その青年はドアベルを鳴らして入ってきた。
「いらっしゃいませ」
クラリスはペンをおき、入ってきた青年に顔を向けた。身長はクラリスよりずっと高く、何かスポーツをやっているのだろうか、筋肉質で精悍な体つきの青年だった。
青年がカウンターの近くに立つと、その大きさが余計に感じられる。青年は外の冷たい空気をまといながら、カウンター奥にかけられたメニュー表を見つめた。
「ご注文は?」
「えーっと」
青年の視線がメニュー表の上をさまよう。数分経っても、注文はない。 下がりきった眉が困惑していることを伝えてくる。その様子がなんだか分かりやすくて、クラリスは思わず笑みをこぼした。
「注文、決まりました?」
クラリスの言葉に、青年は困ったように笑った。
「すまない、コーヒーの種類がいまいちわからなくて……。もしよかったらおすすめを教えてもらいたい」
そのとき、クラリスはメニュー表から目を離した青年と目が合った。
そこには青空があった。突き抜けるような晴天の青。絵の具よりもなお純粋な青。それがクラリスを見つめていた。
「あまりコーヒーに慣れていないなら、これがおすすめです」
クラリスは言いながら、メニュー表を指さした。
「ブルーマウンテン?」
「苦みが少なくて飲みやすいの」
「じゃあそれを一つ」
「ええ、すぐに」
クラリスがコーヒーをいれる準備を始めると、その目の前に青年は座った。まだ悩んでいるのか、彼はメニュー表を見つめたままだ。
ドリッパーにコーヒー粉をいれ、ケトルでお湯をわかす。手持ち無沙汰になったクラリスに、青年が声をかけた。
「あの絵は君が?」
青年が指す先には、クラリスが先月描いたカエルがいる。カエル、といってもなぜか二足歩行だし、肩(カエルに肩?)をあげてコーヒーを飲んでるし、目の位置も不自然だ。クラリス的にはあまり納得のいっていない落書きだった。
「ええ、下手でも笑わないでね」
クラリスの言葉に、青年は笑みをこぼした。
「いや、とてもかわいい絵だと思うよ」
「ほんとう? ありがとう」
「とても、チャーミングだ」
青年はそのカエルを見つめながら言った。
「そこまで褒められると、恥ずかしいかも」
クラリスは照れを隠すように、フィルターの上からお湯をゆっくりと注いでいく。淹れたてのコーヒーから漂ってくる香りが、外の寒い空気を押し退けて店内に広がっていく。
「いい香りだ」
「そうでしょう? はい、どうぞ」
クラリスはコーヒーを青年の前に差し出した。彼は丁寧にコーヒーカップを手に取ると、香りを堪能してから一口すすった。
「おいしいよ」
「よかったわ」
クラリスはほっと胸をなでおろす。客にコーヒーを提供するときは、いつも緊張する。それが自分の淹れたコーヒーであればなおさらだ。
「こんなにおいしいコーヒーは初めてだ」
青年は感心したように言い、二口目をすする。のんびりした、穏やかな時間が流れていた。店内に響くジャズ音楽が、いつにも増してゆっくりに聞こえる。
「そういえば、何かスポーツをやっているの?」
クラリスの問いに、青年は軽く首を横にふった。
「昔は体が弱くて、スポーツをする体力はなかったんだ。今でもそんな余裕はなくて……」
目の前の青年の体格から、体が弱かった過去なんて想像がつかない。クラリスは驚いた。
「ラグビーとかやってそうなのに?」
「本当にやってないよ。よく言われけど」
青年は肩をすくめて苦笑した。
「でも、スポーツ観戦は好きだ。ブルックリン・ドジャースとフィリーズの試合は今でも思い出せる」
「ブルックリン? ロサンゼルスではなくて?」
またまたクラリスは驚いた。ドジャースがブルックリンを本拠地にしていたのは何年前の話だろう。
「ずいぶん昔からのファンなのね」
「ああ、いや、うん。そうなんだ。親がずっとそう呼んでるからつられて」
青年のあわてぶりに、クラリスは曖昧にうなずいた。
そこから二転三転する話題の端々で、青年はおかしな話をした。青年と話してると、生きてきた時代が違うような、マスターと話しているときのような、変な心地がした。
「それじゃあ、もう行くよ。コーヒーありがとう」
「私も話せてよかったわ」
店から出ていく青年の後ろ姿を見届けて、クラリスはメニュー表作りを再開した。ジャックオーランタンにカエルのときのような手足を追加して、コーヒーカップを持たせる。またまた変な絵になったが、青年のチャーミングという褒め言葉を思い出して、自然と笑みがこぼれた。
それが青年との初めての出会いだった。青空のような瞳と、ちょっと変なことを言う奇妙な人。それが最初の印象だった。それから青年は、時々店に訪れるようになった。ほとんどメニュー表とにらめっこをしながら、注文する。カウンターに座る青年とたわいもない話をするのがクラリスの楽しみになっていた。