― Diana ―

月の女神の名前はディアーナだったか。シーザーはある満月の夜にそんなことを思い出していた。月光に照らされたその女性があまりにも幻想的だったからである。まさに月の女神と形容するにふさわしい美しさであった。

彼女は2階のバルコニーから身を乗り出して月を眺めていたが、シーザーと目が合うとさっさと部屋の中に姿を隠してしまった。月明りの中、彼女の真っ青な瞳がシーザーに突き刺さった。

次の日、シーザーは昨晩と同じ場所に来ていた。例のバルコニーに人の姿はなく、バルコニーに続く窓も今はしっかり閉じられ、重いカーテンがかかっていた。

簡単に会えるわけもないか。シーザーは近くのテラス席へと腰を下ろした。昨晩彼女と出会った時間まで待ってみようと思ったのである。その後は特に時間を持て余すこともなかった。シーザーが1人でいるのを見て、幾人かの女性が声をかけてきたからである。シーザーは彼女たちを丁重にもてなし、その間に時間は過ぎていった。

「じゃあね、シーザー」

最後の女性がシーザーに手を振って離れていった。その顔に浮かぶ満面の笑みが、シーザーの心をも明るくした。しかし同時に、昨晩の女性の、悲壮感めいたものを漂わせた美しい面立ちを思い出させもした。彼女の、自らの喉元に刃を向けているようなそんな緊迫感をはらんだ瞳が、シーザーの足をここまで運ばせたのだった。

元々、シーザーは困っている女性を放っておけない性格である。たとえ彼女の瞳が涙で濡れていなくても、いや濡れていないことこそが余計に、シーザーの心を震わせた。

やがて日が完全に沈み、欠けた月が1人になったシーザーの真上まで昇った。シーザーが何回か足を組み替えたとき、金具のぶつかる音がひっそりと響いた。窓が開き、彼女が顔を覗かせた。彼女は昨晩と同じようにして身を乗り出し、月に視線をそそいだ。シーザーはしばらくその様子を見つめていたが、やがて立ち上がり、彼女に近づいた。

「きれいな夜空だね、シニョリーナ」

彼女はシーザーの登場に大いに驚いたようであった。大きく見開かれた目が、空から地面へと視線を移した。そしてシーザーの姿を認めると、

「あ、」

戸惑いの声が彼女の口から零れ落ちた。

「怖がらせるつもりはないんだ」

シーザーは女好きのする笑顔を浮かべて、両手を掲げた。敵意がないことを示すためだった。彼女はしばらく視線をさまよわせていたが、やがてその瞳に諦念の色を浮かべた。

「一緒に天体観測しても?」

シーザーの言葉にも彼女はそっけなく頷くだけだった。シーザーはバルコニーの向かいの壁面に背中をあずけて、夜空を見上げた。今日は曇りだった。星空はそのほとんどを雲に覆われ、月は今にも姿を隠してしまいそうだ。

シーザーは夜空からバルコニーの方へと視線を移した。ほとんど何も見えない夜空を、しかし彼女は熱心に見つめていた。

「シニョリーナ、いったい何をそんなに熱心に見つめているんだい?」

シーザーの質問にしばしの間を要して、彼女は口を開いた。

「空を。広大な空を見つめていれば、自分の命などちっぽけなものだと思えるのです。それに」

彼女は少しの間口をつぐんだ。

「眠ってしまえば、明日になってしまいます」

シーザーはそれから毎日のように彼女の元へ足を運んだ。シーザーの話に彼女は熱心な反応は示さなかったが、邪険にすることもなかった。やがてシーザーは彼女の立つバルコニーへの侵入を許された。別れのときの手の甲へのキスも許された。

もっと時間が経てば、彼女自身から身の上話を聞くことができるだろう。何にそんなに追い詰められているのか、教えてくれるだろう。シーザーはそんな日が来ることを楽しみにしていた。

「明日、わたしはここからいなくなります」

彼女は冷たささえ感じる声でそう返した。その言葉は的確にシーザーの胸をえぐった。

「いったいどこに……?」

彼女は、今度は一言さえ発さず、空に指を向けた。指は2人が初めて出会った日と同じように輝く満月を指していた。

シーザーはそれで全てを察してしまった。彼女は近々この世界からいなくなるのだと。魂がこの地を離れ、どこか遠くへ、それはあの世と呼ばれる場所へ、旅立っていくのだと。そして、シーザーはその瞬間を見届けることを許されはしなかったのだと。

「さようなら、いい夢を」

シーザーはいつもより長く彼女の手の甲にキスを送った。唇を離したときが別れのときだと思うと、なかなか体を動かすことはできなかった。

「さようなら」

その言葉が最後の合図だった。シーザーは体を起こすと、彼女の手を離した。最後に、悪あがきとばかりに、微弱な波紋を流した。

救えるとでも思ったのだろうか。過去の自分は、数々の女性経験を重ねるうちに、そんな傲慢な考えを持つようになっていたのだろうか。

シーザーは胸の奥に沈んだ重たい何かを感じずにはいられなかった。

それからの数日間をシーザーはあまりにぼんやりと過ごした。あとからその数日間を振り返ってみても、何をしていたのか思い出せないほどであった。

しっかりするんだ。シーザーが自分にそう言い聞かせたのは、リサリサに修行の場から叩き出されてようやっとだった。

あの1ヶ月の思い出を忘れることはできなかったが、シーザーはもうその記憶に振り回されることはなくなった。胸の中の記憶の書架ともいうべき場所に、それは箱に入れてしまわれた。日常でその記憶を取り出すことはない。満月の日にシーザーは決まってそれをいそいそと取り出し、1人で記憶の波を泳いだ。その度にどうしようもない哀愁がシーザーを打ち付けた。

彼女は月に行ったのだ。

シーザーは満月に想いを馳せる。もしかしたら、何の気まぐれか、彼女がまたこちらに来ることはないだろうか。いやそうでなくても、月からシーザーのことを覗いてやしないだろうか。

夜が明けると、シーザーはまた記憶を箱に丁寧にしまい、記憶書架に戻すのだった。

シーザーは薄れゆく意識の中で、記憶書架に手を伸ばした。例の箱を取り出し、リボンを丁寧にほどいていく。そうして彼女との記憶に身を浸した。最期の逢瀬だ。

「ジョジョは、そりゃあ出会いは最悪だったが、いいやつだってのはもう十分わかってる」

不思議な感覚だ。これは記憶のはずだが、シーザーは想いを馳せてきた過去とは違うことをしゃべっていた。

「必ず、柱の男たちを倒してくれるはずだ。リサリサ先生もいることだしな」

シーザーはまん丸の、限りなく新円に近い満月を見上げた。そして、最後にジョジョに残したシャボン玉を思った。

あれはジョジョの手に渡っただろうか。

その疑問に答えるように、隣に立つ彼女が小さく微笑んだ。

「大丈夫よ、シーザー」

彼女はシーザーの名前を知らないはずである。シーザーは不思議な感覚を覚えたが、それよりも安堵した。よかったと、心からそう思った。最期に未来へ何かを託せたなら、それでいい。

視界がぼんやりとしてきた。薄い膜ごしに世界を見ているような、そんな気分だった。シーザーは終わりを意識した。

「シニョリーナ、どうやら、そろそろ別れのときのようだ」

シーザーは膝を曲げると、彼女の手を取った。

「さようなら、いい夢を」

いつの日かと同じセリフを述べて、キスを送る。

視界の端で、世界がぼろぼろと崩れてきていた。もう時間がないのだと、シーザーの背中に迫る。

「おれも、君のいるところに向かうことになるだろう。どうかそのときは、また君へ会いに行くことを許してほしい」